小説 『 Gaming 』 MV「ゲーミング」

この小説のMV  https://youtu.be/_GltLDxrIH8

 

ーーーー『 Gaming 』ーーーー

 

父の哲学

トミィ「 ” 笑いとは本質的な起源は攻撃なんだ。だから笑ったらあかんぞ、富美子(とみこ)!”ってね、私の父ったらね、昔からもうほんっとうにうるさくってうるさくってねぇ・・・」

相方のリリィがすかさず言う。「あらまぁ〜、それは大変だったわねぇ・・・トミィ、だからあんた今じゃこんなっ・・・ww」

トミィ「そうよあんた、見なさいよ私をww 、、、もう、その反動ったらすごいでしょう?」と富美子は腰まで蛍光緑色のジャージをぐいぐいっと捲(まく)し上げて得意げに言った。

相方が怪訝(けげん)な顔付きで観客の方へゆっくりと振り向いて大声で叫んだ。「・・・だそうです!みなさん、お気をつけて!!!」

客席に笑い声が響き渡った。

相方「ところでトミィちゃん、今あなたいくつだっけ?」

トミィ「え!?何よ?乙女になんてこと聞くのよ??・・・リリィ、あんた、こんな観客が数百人もいる所でよくもまあ恥かかせてくれようだなんて、とんだBBAね!!!」

相方「ビ、BBAえええ?あ、あんたこそ大して変わらないじゃ無いのよぉぉぉ!バラすわよぉ?!この60歳めっ!!!」

トミィ「あんたあああああ!!!!!!」

客席に再び笑いが起こった。

相方「・・・そっかぁ、まだわかってないのねえ、トミィちゃん。あなた、今年は記念すべき還暦でしょう?・・・私はね、この場を借りてお祝いしたかったのよ?」

トミィ「・・・あらやだ!なんだそうゆう事なのぉ?もお先に言ってよぉお、リリィちゃんったら、、、やるじゃないっ!」

相方は後ろの隠し棚から何かを持ってきて言った。「だからね、ほら、プレゼント!!!持ってきたわよ。開けてみなさいよ。」

トミィ「えぇぇ?何よ大奮発じゃないのどうしたのよ!すごい・・・こんな素敵な包み・・・これってサプライズってやつね!?」

トミィはプレゼントの箱を両手で持ち、客席に向かって頭上に掲げてから嬉しそうに会釈をした。

客席から暖かな拍手が鳴り響き、それと同時に一同はプレゼントへ意識を向けた。

トミィが「では・・・」と言ってプレゼントの箱をあけると・・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私にとって父はとても偏屈な人で所謂(いわゆる)、哲学オタクと言う感じであった為、子どもの頃の私にとっては全く面白くない人だった。

今でこそこんなことが言えるけど、過去の私自身もまた、とてもつまらない人間であったし人生はなんの色彩も形も無いものだったように思う。

例えば、何か趣き(おもむき)のある景色の中にいても、自分がかけているメガネに青色のレンズが入っていれば全てが青く見えてしまい、視界も立体も偏ったものになってしまうように。

本当の意味で”ソレ自体が持つ面白さや奥深さ”を体感できる世界には居ないのと等しい。私はそんな柔軟性も多様性も無い既視感のある世界をずっと生き続けてきた。

だからいつも、「何が面白くてこんな世界を生きているんだろう」と言う一種の絶望感と渇望感を抱きながら日々をこなしていた。

でもそんな私に人生の転機が訪れたの。

およそ13年前の秋の事。

それは長らく通い詰めていた喫茶店で体験した”アレ”が事の始まりだった。

喫茶店での不思議な出来事

いつものコーヒー、いつものドアの音、いつもの空調。

富美子は今日も窓ガラス越しにぼーっとしている。

ここから見える車の行き交う景色も、人々の話し声も、昔から変わらない蝶ネクタイの店主も

唯一、いつの日も変わらずに彼女を迎えてくれる安全でレトロな空間だ。

お気に入りのダイヤモンドの指輪を左手の視界の脇に確認しながらいつもの様にアメリカンコーヒーを味わった。

彼女はいつも一人で過ごしていた。

2004年に夫を癌で亡くした。息子達は二人ともその少し前から海外へそれぞれ活動すると既に家を出ていたので基本的に一人でそれからは過ごしていた。

昔はよく子どもたちの勉強を手伝ったり、お弁当を作った。夫も富美子をとても愛していた。両親が若い頃に他界してある富美子にとっては

いつでも必要としてくれる人がおり、いつでも帰れる場所があることはこれ以上にない幸せであり、家族というのは彼女にとって唯一の場所だった。

そしてその暖かな日々が記憶となってしまってから、既に3年の月日が流れていた。

「元気にしてる?」と半年に一度くらいの頻度で長男は連絡をくれる。

末の息子は危なっかしくてどうしているかと気にはなるが連絡は来ないし、うるさがられるのも嫌なのであまり連絡をしないようにしていた。

富美子は心の中でいつも自分に言う「息子達はきちんと出世して今では私の想像の及ばない次元へと旅立っていったし、元気にしているみたい。

本当はいつだって連絡が欲しいけど、でも良き母親でいたいから、私はわがままは言わない。」

コーヒーの注がれる音。ティーカップのシャンッという音。

近くの席に座っている年配男性のずっとずっと続く話を、親身に頭を縦に振りながら聞く、品の良い感じの富美子より20歳は歳下であろうと思われる女性。偉いなぁと富美子は思う。

近くの背の高さまである立派な観葉植物と目が合う。

富美子は観葉植物に心の中で問いかける。

「私にとって家族とはなんだったと思う?夫や息子たちにとって私はなんだったと思う?」

観葉植物は涼しげな顔で黙っている。

「・・・離れた人の事を想うとき、見えない世界で繋がっているって父が昔、言っていたけど、それは本当なの?」

もちろん、富美子も観葉植物に話しかけたって答えが返ってくるなど、はなから思ってはいない。

富美子はここ数ヶ月、哲学にハマっていた。

夫を無くしてから自然の流れで哲学的側面を自分の中に見出さずには当時を耐え忍ぶことはできなかったが、その時から今までもそこまで理知的で客観的でいることはできなかった。

だからその当時はただただ現実から逃避するしかなく、かろうじて友人や息子達に頼ることで何とか凌いできた。

そして心の中のポッカリと空いた穴についてはどうしようもなく、放置せざるを得ないのだと自分を説得した暁に、いつしか富美子は自分という感覚に随分と鈍感になっていった。

実の所、哲学にハマっているといっても、最近の部屋で鳴る謎の物音(ポルターガイスト)を奇妙に感じ始めた事で見えない世界に興味を持ったというのが直接的なきっかけだった。

それに加えて数週間前の事、なんでもヨーロッパで近年新人気鋭の天才金髪イケメン哲学者がいるとかで、彼の書いた哲学書が本屋で少しばかり目立つように陳列されていたのを偶然見つけて、なんだか妙にその哲学者の顔が目に焼き付いて離れないので、

どうしても気になって結局、翌日改めてその本を買いに行ってみたのだ。そんな具合にゆるい好奇心から富美子は何か物思いにふける時間が多くなっていた。

だが、その本は既に売り切れてしまったようで「入荷待ちでして・・・人気なようで再版まで少しお時間がかかるみたいなんです。早くて3週間ほど先のようで…。」と書店の受付の人に言われてしまった。

せっかくの冒険心に灯った火がふっと吹き消されてしまった気がしてがっかりしながら情けなく書店を後にした。

今日はちょうどその再入荷が済んだ頃だろうか。でも、3週間も前に吹き消された火が再び灯って、分厚く不慣れな本に挑戦するには何だか現実的ではなかった。

実はこの喫茶店の通り沿いの数軒先まであるけば例の本屋はあるのだが・・・。

富美子は哲学について自ら勉強をしたことは一切ない。

かろうじてユングやフロイトの名前を知っているくらいだが、それは父からこっぴどく哲学の話をされてきていた中で特に良く出てくる名前であっただけであるし、はっきり言ってうんざりしていた。

だから案外あっさりと諦めがついてしまったと言うのも正直なところではあった。

ポルターガイストについては、旦那が亡くなってからちょくちょく起きていた事ではあったが、ここ1ヶ月くらいのソレと言うのは旦那のそれとは違うもののように感じていた。

富美子は観葉植物に心の中で問いかける。

「じゃあ、ポルターガイストはやっぱり幽霊なの?・・・それくらいは教えてくれたっていいでしょう?」

観葉植物は何か押し黙っているように見える。

富美子は続けていう。

「・・・何とか言ってよ。」

すると、

その瞬間に隣の席の壁の上の方でで大きなパンッ!というラップ音が鳴った。

富美子は思わず声を漏らす。

「え・・・。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夫が亡くなってまだ日が浅い頃は、毎日目が腫れるほど泣いていて、外出もままならなかった。

葬儀などの時期は、バタバタと忙しかったし、まだ放心状態で夫が亡くなったなんて信じられなくて最初は涙が全然出なかった。

彼の棺桶に入った顔はとても綺麗な白い肌で、ここにもう魂がないなんて信じられていなかった。

焼却炉の中に彼が入っていく光景はただただ無機質で、焼却炉の周りの壁と、床と、天井と、近くにあった観葉植物、それから周りに立って見守る黒い服の人々は言葉で隔てることができない物質の塊として”個性を持たない何か”でしかなく、それら全てに意味合いが無いもののようにしか受け取れなかった。

富美子は他人事かのように、自分の夫?死ぬって?という不思議な感覚で、焼却炉の扉のギギギという音を聞きながら静かに彼を見送った。

それから訳もわからず、ぼーっとした日を幾日か過ごしてから、ある日の昼下がりに、ソファに座って雑誌を眺めていると無自覚に溢れだす自分の大量の涙に気づいた。

息子達も葬儀後には一週間程実家にいてくれたが、そのあとはもう海外の自宅に帰宅してしまっていたので部屋は富美子以外にいなかった。

一切の無音の世界。

いつになっても聞こえない彼の「ただいま」

急にこれは事実なのだと実感した途端、富美子はソファから崩れ落ち、フローリングにうずくまり泣きじゃくった。

永遠に抜けられないトンネルの中に入ってしまったかの如く脳内で自動再生される彼の「ただいま」の声、「富美子」と呼びかける声、浮かんでくる優しい笑顔。

全ての愛しい記憶が憎らしいほどに富美子をがんじがらめにした。

いっそのこと自分も消えてなくなりたい、こんなに悲しいのであれば最初から何も知らなければ良かったとすら思った。

そうして目を晴らす日々がその日から毎日毎日続いた。

それから2ヶ月ほど経ったある日、富美子は鏡に映る自分の顔が昔の顔と変わってしまっていることに気づいた。

げっそりとして、体重を測ったら10キロ近くも落ちてしまっていた。

客観的事実を捉えていくうちに徐々に徐々に、、、冷静になっていった。いつまでもこうしていてはダメだ、と。

数日して、富美子は長男に人生で初めてのお願いをした。

「実家にしばらく居て欲しい、どうしようもなく寂しいの。何とか変わらないと私もう無理そう。ごめんね、お願い。」と。

そして長男は3週間の間、仕事の休暇をとって実家に帰省して留まってくれ、末の息子も1週間ほど帰ってきてくれる事になった。3人は食事を共にし、彼についてを語り合った。

息子達は時には富美子の背中をさすりながら一緒に泣いてくれた。息子達がいてくれて本当に良かったと心から思った。

旦那が亡くなってから半年して、富美子は近所の老舗の高級スーパーマーケットで週4日勤務で働き出した。

いつしか空のカラッと晴れ渡る気持ちよさを感じられるまでに回復していきつつあった。

その頃からだろうか、部屋の物音に気付き始めたのだった。

当時の富美子にとってそれは微笑ましいものだった。別に何が聞こえるでも見えるでもないが、

旦那の名前を呼び、「いつもみていてくれてありがとう」と部屋で一人でつぶやいたりもした。

そんな風にして、富美子は新しい生活をスタートさせた。

スーパーと家を往復する生活。時々、学生時代の友人と会ったりもできていた。

でも何か物足りない感じは拭えない。このまま私は年老いていくのだろうか。

誰にも私が今ここに生きているというものを知らせずに死んでいくのだろうか、と漠然とした何か虚無感に襲われては、やはり涙が自然と溢れる夜を繰り返した。

そうやって彼が亡くなってから入ったその”トンネル”は、抜けられたようでいて抜けることがない不思議な世界なのだと段々と気付き始めていく。

何か悶々としながら不毛に時間が過ぎゆく日々を眺めていた。そして疑問に思うことがもう一つ出てきた。

「そもそも、私は幼少の頃からトンネルの中を走っていたのではないか?」という疑問。

思えば、何だかいつもパッとしない人生だった。

富美子にとって、父に言われた「笑うな」という躾(しつけ)は人生の大きなテーマだった。自分以外の人達のキラキラした様子、あれは何なのか?

父曰く、「微笑みの笑いは質が違うから良い」のだという。しかし「歯を見せて声を出す、アハハという様な笑いは攻撃」なのだという。

確かにどこかで他者をみくびる気持ちや嘲る(あざける)気持ちが根底の深い深いところに存在しているのかもしれないなと考察することができてしまった。それで、中学生時代に「笑うことは攻撃だ」の真意に妙に納得してしまった富美子は明らかに他の学生とは違う大人しさで何か物珍しく、友人達には実際のところ気味悪がられていた。

それから友人達との薄い壁を徐々に、はっきりと感じていくにつれて、富美子はその後の学生時代を友達というものを作ることをやめてネット上の空想の世界に費やした。

そして、26歳になった頃に旦那と出会った。

それは富美子にとって世界で唯一の憩いの場となり、トンネルを走っているという感覚を忘れさせてくれる存在となった。

少なくともそのトンネルの中で灯る大きな光だった事には違いない。

富美子が勤めていた人材派遣会社の取引先の担当で、一緒のプロジェクトを任されて数ヶ月間ほどやりとりをするうちに交際に至り、富美子が29歳になった夏のある日、彼からプロポーズを受けた。

その日は、忙しい人にも関わらず珍しく富美子を温泉旅行に誘い、二泊三日で色々な場所に連れ出して朝から晩まで観光や現地散策をして楽しんだ。

そして最後の日の夕食前、旅館のベランダで透き通った景色が見守る中で、彼は指輪ケースを開いてダイヤモンドの指輪を見せた。

ダイヤモンドは夕暮れの光を含んで解き放つように鮮やかなオレンジ色と微かな虹色にキラリキラリと輝いている。

彼は緊張混じりに「結婚してください」と言った。彼の眼差しはいつもにも増して特別に、深くて強く、そして優しかった。

指輪のダイヤモンドにも勝るほどの彼のその瞳のあまりの美しさに、時が止まったように感じた。

その日の夜、2人はこれまでにないほど深く愛し合った。

付き合っていた時から思っていた事だが、富美子が夫に驚いたことは夫もまた「笑わない人」であることだった。

微笑みはするが、声をあげて笑うことはない。

お互い声をあげて笑わない事が当たり前だったので、その理由は聞かなかった。

彼はとても優しく辛抱強く、家族の為に週末も時間をとってくれた。

彼がくれたダイヤモンドの指輪は富美子のお気に入りだったので、いつも肌身離さずつけていた。

だが、彼が亡くなったことで、忘れていたあの事を思い出してしまったのだ。

心のどこかで自分の世界には何かのベールがかかっている気がするという学生時代からの違和感。

トンネルの中は再び暗闇となり、実体のない感触を持って忘れきっていたその違和感を浮き彫りにさせていった。

スーパーで働くことに慣れてきた2年目の終わり。富美子はまた自分がトンネルの中にいる事をふとした瞬間に思い出す日が日に日に増えていった。

活き活きと生きるとは何なのか?楽しいとは何なのか。人をあざけてもなお笑うということは果たして”悪”なのだろうか。

父の教えやこれまでの自分の生き方に、重大な疑問を抱いている事をいよいよ見逃せずにはいられなくなってきつつあると確信した。

そして、私にも何かそうゆうキラキラと生きるという体験が必要なのかもしれないと覚悟を決めて、幼い頃に通っていたバレエダンスの経験を思い出し、手始めにダンスを再開してみることを決意した。

年齢的に受講できるダンス教室はまだ当時少なかったのだが、どうにかして最寄駅から電車で15分ほど移動した場所にある”大人のバレエ”という教室を見つけることができ、そこに通うことになった。

初心者大歓迎という謳い文句に加え、1年に一度、観客を集めて希望者はバレエの発表会をするのだという。富美子は微か(かすか)に胸が高鳴るのを感じた。

次の発表会は来年の秋だ。

バレエ教室にはそれから週2回も通うようになっていた。

富美子は学生時代はとても細くてヒョロかったのでバレエに向いた体型であったが、大人になってからは何の運動もしていなかったので

随分と体重も増えて体のラインもバレエダンサーというには”みっともない”としか言いようのない体型になってしまっていた。

それでも初心者の大人でも始められるバレエ教室であったので、

先生は体型にはあまりうるさくない人だったし、先生も筋肉質で細いというよりはどちらかというとバレエの先生の中ではぼってりとした方だなと思ってはいた。でもそのおかげで30名ほどいる初心者を含めた大半の生徒達は

みんな安心して先生の授業を受けていられたのだろうと富美子は納得していた。

本来のバレエ教室というのは大概が非常に体型に厳しく、また厳格で品位にこだわっている教室が多い為、このような

ゆるい教室というのは珍しいのである。バレエ教室の中でも”特殊な教室”といって間違いない。

初心者の体型の崩れた大人達が踊るプリエは誰がどう見ても見るに耐えないものに映りえなかった。しかし皆、救われる思いだった。

大人になるとは、こうゆうある意味、理想を捨てて生きやすくあれる世界なのかもしれないなと何か希望と同時に虚しさを感じたが「この考えはエゴだ」と悟った。

そもそも、何かを思考したり正論を考えること自体が”何かに熱中している人”にとって何の意味も持たない事をこの特殊なバレエ教室に通うようになってから何となく感じ始めていた。

非常に辿々しい(たどたどしい)足取りでのステップ。ターンはというと直立して綺麗に回れずに途中で両足をついてしまう始末。

腕も長い時間上げ下げするのが辛くて、気付いた時にはまるでオランウータンがバンザイをしているかのようだった。

先生は見かねて時々、富美子達と全面鏡に背を向けてこっそりと苦虫を潰したような顔をした。

だが、教室は基本的に”特殊であり且つゆるい”ので無言のうちに許された。

このバレエの先生も生活がかかっているのだろう、下手に怒って生徒がやめてしまうのは嫌なのだろうなと想像した富美子は自由に踊ることができた。

先生は基本的にはいつもにっこりと笑顔でいて、褒め上手であって、心の声を前に出すことはしなかった。

「アンデュトワー、アンデュトワー」先生の拍手の音と甲高い声の癖を覚えた頃には富美子も3曲の初心者用のものを踊れるほどになっていた。

永遠に来ない完成された踊りではなくとも、通して振り付けをこなすことができればこの”特殊な教室”ではOKなのだ。

先生は教室で甲高い声とにっこりとした笑顔で最後のお話しタイムで告知した。

「さあ皆さん、この秋の発表会まで残す所あと24日を切りましたね!怪我のないように家に帰ってからもしっかりと柔軟体操をしておきましょう!

また、ご家族やご親戚の方々、知人友人の方々、色んな方をぜひ、発表会に招待されてくださいね。年に一回だけの皆さんの大切な晴れ舞台です。

これまでの頑張りを誰かに見てもらうことで皆さん一人一人が輝き、そしてその素敵なエネルギーを見にきてくださる方々に届けて差し上げてくださいね!では今日もお疲れ様でした!」

先生の目はいつもよりも特段キラキラして見えた。先生の瞳は照明の虹色のプリズムを微かに捉えていた。

富美子はずっと不思議だなと思っていた。なぜあの人の目はあんなにキラキラしているのだろう。

やりたい事で食べていると言ったって、正直な所、私達のどうしようもない踊りをお稽古すること自体に”楽しい”などの何かを感じるものなのだろうか。

そんなことを訝しげ(いぶかしげ)に考えながら先生の吸い込まれるような瞳をふんわりと浮かべて帰路についた。

そしてその日の夜、例のポルターガイストがいつもの夫のものとは違う気がする、、、という違和感を感じ始めたのだった。

見えない世界があることは何となくわかった。

でもいつもの感じと違うのだから気になって仕方ないのは当然だった。

それが1週間も続くといよいよネットで「ラップ音 幽霊」などと調べ始めた。

だが、どうにもしっくりこないネット記事が広告とともに目の前に表示されては流れていくだけで、結局、確かな答えを見つけることはできなかった。

それからはポルターガイストがあった時には静かに心を落ち着かせて目を瞑ってみることにした。

不思議と嫌な感じはなく、穏やかだったし、気付いたらそのまま数時間程眠ってしまうこともあった。

大体その時には奇想天外な夢を見て起きるし、場合によっては前回の続きだったりするがいつも内容はうる覚えなのだ。

そんな見えない世界に意識を向け始めた時期に、この前の本屋さんで例の哲学書を見かけたのだった。

この金髪イケメンの天才哲学者は・・・一体どこかで見たことのあるような顔だな・・・と不思議な感覚を覚えた。

彼の顔が時折浮かんでは消える。本の表紙は赤文字ゴシックの英語。あんなニッチな本が一体なぜ売り切れたというんだろう。

彼の名前を調べるが、お世辞にも日本で大騒ぎしている様には思えない程度の検索結果だ。

しかし、偶然にも彼の本が日本で翻訳され売られている店舗も、そもそも翻訳され売られている部数も、かなり限られていることがわかった。

それを思えば一部の熱狂的な哲学オタクが買いにくるのは必然だったのかもしれない、と富美子はそう思う事にした。

発表会まであと15日。

富美子が寝る前にストレッチをしていたとき、また部屋の頭上でバチン!と大きな音がなった。嫌な感じはしない。ここのところ、毎日こんな感じなので富美子はまたかと思った。

ラップ音が始まると数分間程続いた後、気付いた頃には鳴らなくなる。静かに呼吸を深くして前屈を続けた。

頭の中で脚の裏を伸ばしながら数を数える。

1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15…

気付くと私は薄い霧の続く森の中にいた。

地面には黄色い花が一面に咲いていて、何か神秘的だ。しかし天候は白く曇った感じだった。

足元がふわふわとしてうまく歩けないで浮いたようにして森を進んだら、

両サイドの木々の間や黄色い花畑の奥にいくつもの家具が置いてあることに気づく。

よく見ると実家の音程のずれきって弾かれなくなったピアノや、実家で昔見ていたブラウン管のテレビなど、過去に使ったことのあるものだ。

他にも一人暮らしの時にほどんど使わずに売ってしまった一目惚れして買った赤い椅子など、何か色々なものが置いてあった。

それから謎のビリビリに破り捨てられて山になって積もっている大量のサイケデリックな柄の雑誌、ボロボロになるまで履いたバレエシューズ。

なぜか急に学生時代にきっと私を悪くいっていた3人組の女の子たちが登場して、私をチラ見して笑いながら輪になって何かして遊んでいるようだった。

私はいつも何故か自信がなかったから、確かにその醸し出す雰囲気のせいで何かを言われても仕方なかったのかもしれないと少し回想した。

私は悲しみを感じた。

その場から遠ざかるように歩いて進むと、お母さんが仮設の台所みたいな場所で何かの調理をしているのに出会う。

テーブルの上の大皿には大量の千切りキャベツ、中皿には大量のコンニャクを盛って私に言った。「食べなさい」

しょうがなく無理矢理キャベツを口に頬張った。お母さんは水色瓶のサイダーのような何かを飲みながら嬉しそうに眺めている。

私の方はというと味がなくて美味しくはない。

キャベツをある程度、頬張った後に「こんにゃくだけは勘弁して欲しい」と泣いたが、お母さんには聞こえていないようだった。

私は孤独を感じて悲しくなった。

シーンが切り替わった。

さらに歩いていくとゴツゴツした岩がたくさんある場所に辿り着いた。

そこにはお父さんがいて、何か笛のようなものを吹いて踊っていた。お父さんは私に全く気付かず、一人でずっと笛を吹いていた。

よく見るとほとんど裸みたいな格好をしていたけど細かいことは覚えていない。

私は何も思わなかったし、”それはそうゆうもんだ”と当然の眼差しで様子を見ていた。

少ししてからお父さんの前に羊がやってきて、その羊をやけに嬉しそうに撫でては羊のもふもふした毛に嬉しそうに抱き着いていた。

私は何となく胸騒ぎがするのを押し殺して無感情に眺めていたが、次の瞬間に、

びっくりするくらい大量の何か焦げ茶色いドロドロしたものを口から吐いてしまった。

この時の設定では”小学校の給食で一度だけ食べたことがあるラーメンというものを初めてプライベートで前日に大量に食べていて、それが出てきてしまった”というものだった。

私は何かしらの大きなショックを受けたと同時に、もう誰にも期待するのをやめよう、そう思った。

吐いた時に、視界がかなり揺れて同時に空は深い灰色に曇りゆき、気付くと次のシーンに進んでいた。

既に正常な状態に戻っていて、さらに森の奥へ進んだ。すると本棚が森の中にそびえ立っていた。

よく見ると、それは石壁のような棚で何となくお城みたいな感じだった。

ぐるーっと本棚の横を沿って歩いていくと壁面は途切れて、さびれた黒い門が目の前に現れた。

鍵は開いており、門前の地面には、昔、夫がくれたダイヤモンドの指輪がくすんだ茶色い落ち葉に埋もれるように落ちていた。

私はぼけーっとそれを少しのあいだ眺めたが、無感情に指輪を置き去りにして門の先へ進んだ。

すぐに広くて薄暗いリビングに入った。

がらんとしていて、1番奥の部屋に白いテーブルクロスがかけてある、大きな10人くらいはかけられそうな丸いテーブルを見つけた。

テーブルの上には銀色の聖杯のようなものが置いてあり、わずかに光を含んで佇(たたず)んでいた。

私はあれは何だろう?と思って、その聖杯を覗こうと近くまで歩み寄って行こうとした。

するとどこからともなく後ろから誰かが「What are you doing ?!(一体何をしているんだ!) 」と大声で叫んでくるのが聞こえた。明らかに私に怒鳴りつけており、その気配は私の方目掛けて駆け寄ってきた。

振り向くとあの例の天才哲学者が果物ナイフを持って立っており、鬼の形相で近寄ってきた。私は恐れおののいて後ろへ姿勢を崩した。

天才哲学者は体を前のめりにして私の顔を覗き込むと、途端に大きな口を開けて歯を見せて笑った。

天才哲学者は西洋の透き通ったブルーの瞳をぐりんとひんむいて、次の瞬間にナイフを私の腹部に突き刺した。

「ぎゃあああああ!!!」

私は発作的にうめき声をあげて起きた。

気付くと富美子の部屋の天井が、視界にぼんやりと現れ始めた。少しだけ泣いていた。

恐ろしい夢の中の体験と自分の部屋の何とも穏やかでぬるい感覚。

そのコントラストに圧倒されて少しのあいだ錯乱していたが、徐々に呼吸が正常になっていくにつれて自分が生きているという認識をする。

「・・・よかった、、、生きていた。」

翌日、夫がくれたダイヤモンドの指輪を指輪ケースに入れて仏壇の横に置いて、手を合わせた。

富美子の世界がその瞬間だけは鮮明であったのも束の間、再びぬるくて穏やかな生活が富美子の感覚にまとわりついてしまう。

壁にかかっているカレンダーをぼんやりと見て、赤字で発表会本番!と書いてある所をまでを静かに数えた。

「1、2、3、4、5。あと5日だ。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

喫茶店の中で、富美子は固まっていた。

まるで自分しかここにいないんじゃないかという不思議な感覚に突如、襲われる。

富美子は心の中でつぶやく。

「え?今、、、確かにラップ音が鳴ったよね?近所でなった音じゃなかった、このカフェの中でなっていたよね。

なんでみんな聴こえていないの?びっくりするほど大きな音だったじゃない・・・。」

あたりの周りの人達の反応を確認したくて見回すがいつもの景色のままだった。

静かに観葉植物の方をゆっくりと振り向く。

観葉植物は何かほくそ笑んでいるように見える。

動揺した富美子は平然を装うかのように、アメリカンコーヒーを口に含む。

すると、なんと不味いのか、びっくりして吹き出しそうになる。

「何これ、不味いっ!」思わず声が出てしまった。

「え・・・?」と近くに座っていた女性が富美子の方をチラ見した。

心の中の「なんて不躾(ぶしつけ)な人なの・・・」という声が聞こえた気がした。

マスターもこちらを見て何が起きたのかと、気にしている様子だった。

富美子は周りの視線を一気に感じて、羞恥心と共に顔を下に向けた。

心の中で祈る。「どうか皆さんもう見ないでください、無かったことにしてください、ごめんなさい。」

数秒もした後、再び、いつもの穏やかな喫茶店の空間がゆっくりと漂いだした。

しかし、その空間は、富美子が感じているいつもこの喫茶店に感じていたモノとは何となく違う。

次の瞬間に富美子は”まさに我に返る瞬間”を体験した。

何か、恐ろしいほど世界が鮮明に感じられるのであった。

なんだかいてもたってもいられないようなくらい世界がリアルに感じられるのだ。

「あれ?、、、今」

世界にあるものが立体と意味を帯びている。

「私、、、生きている・・・。」

「すごい。不思議。確かに今ここに、いる。」

「あれ?今まで私生きてなかったみたい。」

同時に、思い出したことがあった。

なぜ数日前に夫がくれた指輪を手から外し、仏前に置いておいたままにしていたはずが、いま指輪をつけているんだろう。

置いてきてそれから、はめようとしたことは一度もないはず。

「何で?」

ダイヤモンドは店内の白熱電球のランプで柔らかく光っている。

この貴重な”確かに今ここに私が鮮明に生きているという感覚”がまた去っていってしまうのが怖い。

その予感が的中することは分かっているのだ。せめても、少しでも長くこの感覚を体験していたいと祈った。

しかし、やはり1分もしないうちに、いつものベールをまとった穏やかでぬるい世界にまた戻ってきてしまった。

富美子はその”生きているという感覚からベールをまとって生きている感覚に戻ってしまう瞬間の境界線のようなモノ”の存在について、

せめて忘れてはいけないと強く思った。

そして、同時に強く、この私の”異常な何か”を何とかしたいと思い始めた。鮮明に生きている感覚を取り戻したい、、、と。

ぼーっとしているうちに例の哲学書が、昨日今日には再販されているんじゃないか、買いに行ってみようかということが閃く。

富美子は喫茶店の席に私物をおいて、財布と携帯電話を持って本屋へ風を切って歩いた。

数分して書店に着くと、予定通り、金髪イケメン哲学者の顔がにっこりとした表紙で数人ほど並んで富美子を迎えた。

「あった。」

富美子は書籍を手に取りレジで購入すると、ものの数分で書店を出る。

そして喫茶店の席に戻ると早速、本を見開いて目次を確かめた。

軽く指を紙面に当てながら目を通していく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ー目次ー

第1章  この不確かな世界に生きるあなたへ

第2章 実在論が及ぼした消費資本主義とその未来

第3章 形而上の・・・・・・・・・

・・・ ・・・・・・・・・・・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

目次も見ずに買ったので、難しそうな内容の羅列に何となくまたぼーっとしてしまう。

ひとまず、わかりやすそうな第1章から見ていくことにした。

P 15  「第1章  この不確かな世界に生きるあなたへ」

私が考えてきたことの中で、重要な認識をまずは皆さんに伝えておきたいと思います。

それなしには本書を本当の意味で楽しんでいただくことは限りなくゼロに近い為です。

その重要な認識とは以下の通り。

「この世に存在する全てのモノは、その存在をそこに観測者が認識したから存在するのではなく、観測者が認識するのとは別に”既にそれがそこに存在している空間がある”という認識を心得ておく必要がある。そして、それらは、観測者の独自のイメージと”既にそれがそこに存在している空間”とが繋がれることで、実体を目の当たりにすることになる。つまり、観測者が想像し得ないことは現実には起こり得ないということなのだ。この事が示すのは、あなたが見ている世界はあなたが想像した世界であると言えるだろう。そして、この世界の実体は不確かであり未来や過去もまた不確かである。」

更に続きを読んでいくが、どうにも難しくてこの天才が言っていることの意味がわからず、”本当の意味で本書を楽しむこと”はできないだろうと読み始めて5分も立たないうちに思い始める。

ついには集中力が切れてきて、パラパラと他のページをめくり始め、いよいよ何だかすごく眠くなってきてしまう。

喫茶店でうたた寝をするのはどうなのか、と理性は富美子の目を開けようとしてくれている。

もう一度わかりやすい所を読んでみよう、きっと考えているうちに目が覚めるかも。

富美子は最初のページに戻って同じ文面を読み直して深く意味を捉えようと試みた。

「この世に存在する全てのモノは、その存在をそこに観測者が認識したから存在するのではなく・・・・・・未来や過去もまた不確かである。」

そもそもこの本を手に取った理由は元はと言えば、人生の暗闇からの脱却を果たす希望を得たかったからである。それだというのに、この本に書いてあることは実質的な改善策や世俗的な事なんかもちろん載っていない。

なんなら専門書に限りなく近いため、こんな難しい本読めたもんじゃないやと半ば半分、後悔してきつつあった。「でもこの本、2000円以上するし・・・」などとうっすらつぶやく。なんとか読もう読もうとするがだめだ、瞼がいうことをきかない。

そして気付くと富美子は理性に逆らってついには眠ってしまっていた。

気付くと、ぼんやりと物悲しい埃まみれのリビングのような部屋で天井を向いていた。

「あれ?ここって、この前きた夢の続き?、、、私、夢を見ている・・・?」

起きあがろうとした途端に、腹部にこれまでに感じたことのないほどの激痛を覚えた。

あまりの痛みに全身にイナズマと寒気が走り、同時に視界がピキッと音を立てて揺れ、体はSOSを感じ取って硬直し無自覚に震えている。

知らぬ間に一気にどっと汗を吹き出した後、声にならない何かを叫んだ。あの天才哲学者にナイフで刺された場所は致命的箇所を逃していたようで富美子は生き延びていたのだった。

首の動かせる範囲で視界の中をうつろに確認するが、そこには自分一人しかいないように思えた。

冷静になれ、、、冷静になれと自分に言い聞かせてその激痛のある方に目を向けると、腹部にはもうナイフは刺さっておらず、そこから大量の血が吹き出している。

体にべっとりとまとわりつく血とその匂いがやけにリアルであり、もしかしてこれは夢ではないのではとさえ思ってしまった。

私を刺した天才哲学者はどこに行ったのか?

もし、まだ生きているとバレてしまえばいよいよ終わりなのである。

とても恐ろしくなってきて体がさらに大きく震え出した。床の腐りかけているフローリングが嫌にギィギィと音を鳴らす。

そしてついにパニック状態になった富美子は硬直したその体から抑えていたものが溢れ出てしまうかのように唸るように細く鋭く尖った悲鳴をあげた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

閑散とした景色の中で、転がっているその残酷なモチーフは誰にも知られないうちに朽ちていくだけである。

その様は世界から見ればそこに”意思が無いもの”つまり”生きものではない”のと等しく思われた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そのうち酸素が薄くなってきて、目が飛び出しそうなほど苦しくなった。ついにうまく呼吸ができなくて

死をはっきりと意識し始める。富美子は過換気症候群(過呼吸症候群)に陥ってしまっていた。

呼吸そのものの存在は富美子に「私は生きているはずだ」と強く訴えかける。

富美子はあまりの苦しさにもうどうしようもないという思いと「生きたい」という思いとでぐちゃぐちゃになっていたが、今頼れるのは私自身の他の誰でもない、私しかいないのだと何か驚くべき生命力を自分の中に見出した感覚があった。

そして自然の理(ことわり)が如く、最後の力を振り絞って部屋を見回し、呼吸を正常に戻すのに使えそうな吸引袋の代わりとなりそうなものを探した。

どうやら離れた場所にキッチンがあり、そこになら何かありそうだと思われた。しかし、出血が多すぎて体に力が入らず、起き上がることも、キッチンへ向かう事も絶望的だった。

もう無理だ。このまま死ぬのは嫌だ・・・!!!

視界は朦朧(もうろう)としてきているのだが、呼吸を欲している私の体はまだ、生きたいと言っているように思われる。とても大きな矛盾だった。

富美子はいよいよ成す術を無くし遂に祈ることしかできない。

神様、どうかお願いします。私を殺さないで。

私は生きたい。私を救ってください、お願いします、、、神様。

視界は真っ暗になった。

遠くから声が聞こえる。

「とみこ!!!」

聞き覚えのある声、足音が近寄ってくる。

富美子は反射的に体をびくつかせて恐怖で目を瞑る。

「富美子、富美子!!!どうしてこんなことに・・・」

目を開けると、彼がいた・・・。まだ体が硬直しており、声はもう出ない。

過呼吸はどこにいったのだろう、体は落ち着いている。何が起きたのだろう、私は助かったのだろうか。

彼は富美子を抱きしめて上半身を起こした。不思議と腹部はほとんど痛くない。

嫌な血の匂いもしない、部屋の中はぼんやりと白い柔らかな空気を帯びているように思われた。

二人は静かに泣いた。涙の粒がポロリポロリと落ちた。ぎゅっと強く抱きしめ合って、互いの匂いと体の柔らかな感覚を噛み締めた。

懐かしい、優しい、愛しい、温もり。

「とみこ、生きて」と彼は涙ぐんで言う。

懐かしい、優しい、愛しい、温もり。

「お願いだよ。」彼の匂いに包まれている。

富美子は彼の顔を見上げた。

彼の瞳は美しくて富美子はため息をつくように、微笑んだ。

永遠にこうしていたい。私は彼と二人で死のう。

「とみこ、俺の分まで生きて、、、、そして楽しんで。」

「とみこ・・・。」

至福の時間。ずっとずっとこの時がくるのを待っていた。

ずっとずっとこのままでいたい。

ずっと、ずっと・・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

喫茶店の扉にかかっている西洋風のベルがジャランジャラジャンと鳴った。

富美子は、テーブルに広げた分厚い本に顔を埋ずめていた。髪の毛も少し崩れてしまっているし、顔に本の縁の跡が版押ししたようについている。

誰かに見られてしまっただろうか、どれくらいの間こうしていたんだろうか。恥ずかしくなって姿勢をすぐに起こして、こっそりと周りを見回すが、

店主は見当たらないし、近くに座っていた話の長い中年男性とその話を熱心に聞く若い女性の姿ももう無くて、店内は随分と簡素になっていた。

富美子は安堵してゆっくりと目を下に落とし肩をすくめた。まだ現実を受け入れ切れていない。

こみ上げてくる想いと同時にまるで自分の失態を隠すかのように、本を持ち上げて顔を隠した。

ただひたすらに、、ひとりでに溢れ出る大粒の涙を隠すことしかできなかった。

幕開け

ダンスの発表会当日。

先生は富美子を含めた出演者生徒達一同と舞台裏で円陣を作って掛け声をした。先生は余裕の顔をしているが、生徒達は緊張しっぱなしだった。

綺麗な衣装に身を包んだ生徒達、正直に言って体型はぼってりしているメンバーが8割ほどだが綺麗に飾ればどんな人も花になるものなのだなと富美子は感心して嬉しい気持ちになった。

発表会の構成は、細身な中年男性も混じっていたり、背の高さもみんなまばらだったりしたので、全てのグループ作品は先生が一部二部で構成員を分けて作ってくれた。

富美子が踊るのは二部。一部二部が終わったら、最後に全員が舞台に並び、みんなで決めポーズをして幕を閉じるという流れである。

緊張の面持ちで音楽の流れる舞台上に先生が颯爽と出て行った。そして「ようこそ皆さん、本日はこのダンス発表会に起こしくださり誠にありがとうございます。本日の・・・」

と簡単な挨拶をし会釈をした。

気付くともう既に一部のダンサー達が使う音楽の冒頭が流れ出している。

一部のダンサー達は皆で手を繋ぎながら顔を見合わせた後に舞台へ出て行った。

富美子達もそれを見てより一層緊張する。

会場には想像していたよりもたくさんの人が来ていたようで、何か熱感を感じた富美子は舞台袖から客席をこっそり確認して、目を疑った。

チームメイトの律子(りつこ)に耳元で伝えた。「律子さん見ましたか?客席の7割くらいが埋まっていますよ・・・。」

律子もびっくりして「えええ?嘘でしょう?と舞台袖から客席を覗く。「やだ!本当だわ・・・」と律子も目を大きくしてげっそりした顔で富美子に振り向いたかと思うとニコッと笑った。

二人はペアを組んでおり、ミラーダンスのようにするシーンが多い構成の二部で共に練習していた為、生徒達の中でも特別多くの時間を過ごす間柄になっていた。

このダンス教室に通い始めてから、富美子は律子の言葉で随分と救われていた。失敗しても「大丈夫大丈夫!あっはっはっは」と良く笑ってくれていた。

発表会前の3日間は数時間も二人で街中にあるレンタルスペースを使ってダンス練習をした。

律子はお調子者な反面とても繊細なタイプで体型はとても細い。富美子は「律子さんは可愛らしい人ですし、スレンダーで羨ましいです。まるで子鹿ちゃんみたい」と褒めたりしたことがあった。

そうしたら律子は「あらやだ!私、人間ですわよ!・・・な〜んちゃって〜!ありがとう富美子さん!あっはっは」と冗談を言った。

富美子は徐々に律子に誘われるようにしてクスッと笑みを浮かべるようになっていった。

こんなに近い距離感で誰かと親しげに喋ることは過去を振り返ってもあまりないことだったし、基本的に人を避けてきたのでとても新鮮な体験だったからだ。

一部の本番中、舞台袖で律子は言った。「あと5分くらいかしらね、、、緊張するわね。そういえばね富美子さん。私、仲の良い子には昔からリリィって呼ばれているのよ。せっかくここまで仲良くなれたことだし、

本番はリリィとして一緒に踊らせてちょうだい。」

富美子「そうなんですね、素敵なお名前ですね。じゃあよろしくお願いします、リリィさん。」

リリィ「じゃあ富美子さんも、親しみを持って呼びたいわね、私たち、ペアじゃない?だからね、、、なんて読んだら良いかしら?」

富美子「え、、、あ、そうですね、私、あだ名って昔からなくて、小学生頃にとみちゃんと呼ばれていた事くらいしかないかもしれません、、、、。」

リリィ「そうなの?じゃあ今作ってみるのはどう?なんて呼ばれたいかしら???」

富美子「今?そ、そうですね、じゃあ、律子さんがリリィなら私は富美子だからトミィかしら?」と言ってなんだか嬉しくてちょっとおかしな気分で富美子はまたふふッと笑ってしまった。

リリィ「オッケーわかったわ!おめでとう。トミィちゃんの誕生ね!よろしくね、トミィ。じゃあ私たちのトミィ&リリィの素敵なダンスを楽しむわよ!」と笑った。

照明が切り替わって同時に二部の音楽がゆっくりと流れ始めた。

リリィが言った。「よしトミィちゃん、行くわよ!」

トミィ「はい、リリィさん、行きましょう!」

二部のメンバーがぞろぞろと音楽に合わせて舞台上に出ていく。二人はトゥーシューズではなく昔ながらの白い上履きを履いて全身白の控えめなフレアドレスを着て先生の手がけた創作ダンスを踊った。題して『白鳥の湖もどき』だ。

実は先生も、あまり真面目腐った内容の公演ではつまらないだろうと考えていたので、ちょっと突飛な創作ダンスを作っていた。またこれがとても初心者のダンサーにはぴったりの作りなのである。

例えば、普通はバレエダンサーというのは移動する時も必ず爪先から地面について移動するなどかなり細かい決まりがあるものだが、そんなことはしない。

みな、上履きでベタベタと地面を蹴って移動するのだ。そのサマに相応しいダンスなのである。時折、タップダンスの要素を含めて歓喜を表現してみたり、急な音の切り返しでタンゴのようなコミカルなシーンを作ったりした。これがまた、面白いのだ。

富美子はどんな気持ちで踊るべきかは分かっていなかった。

リリィは大変楽しそうに満足気にいつも踊っていた。

舞台に出た瞬間に、慣れない照明に照らされて少し肌が熱くなる。舞台上はいつもの練習室の広さよりもずっと広いため、時のすぎる感覚がゆっくり感じるし自分の動く範囲がとても狭く小躍りをしている程度に感じる。どこか小っ恥ずかしい気持ちが途端に出てくる。客席は思っていたよりも暗くて顔がちゃんと見えないが確かに客席には人がたくさんいるのがわかる。

客席側をできるだけ見ないようにと思っていた。何か嫌な予感がするからだ。

先生が何度か言ってくれていた「緊張しそうになったら、客席の皆さんの顔はかぼちゃなのだと思いましょう!」がきちんと役に立ってくれることを祈った。

まずはソロの動きのみで構成されているダンスで、時折、愉快なタップを交えながら進んでいく。

途中から自由度の高いダンスがさらに入ってくる。

順調に全体の中盤あたりまで踊ってきた段階で、富美子は緊張で頭がなんとなくぼーっとしてきてしまう。

そろそろリリィと一緒にミラーダンスをやるシーンに近付いている。

富美子はなんだか自分の様子がおかしい事を気に留めないようにし、一心不乱に踊り続ける。

ここからのシーンはこうだ。

<10人のメンバーはそれぞれの相方とお互い向かい合って常時、同じ動きをする。舞台上に全員でV字を作るように配置につきスタート。向かい合って歩み寄ってから、お互いの片手を合わせて不思議そうに首を傾げて客席の方を向く。もう一度お互いが向き合ったら静かに後ろに3歩後退りして、次の音の合図でつま先とかかとの順にトントンとしその場でターン。またお互いの方へ体を向き合わせて歩み寄ったら、両手を軽く突き出し合って瞬時に後方へ3歩離れまた客席を向いたらニコリと笑ってその場で「驚き」を表すジャンプ!>

リリィとトミィは客席に1番近い、V字の先頭の所に配置されていた。

いよいよ、ミラーダンスにいく前のシーン切り替え。

10人が舞台からそれぞれ、左の舞台袖、右の舞台袖に移動し隠れた。そして音楽がゆっくりと切り替わっていく。

富美子はかかとでどすどすと舞台袖へ向かっている途中に、いよいよ緊張がマックスになってきてしまう。心の中でつぶやく。

「落ち着け、、、落ち着け。お客さんはみんなかぼちゃだ。かぼちゃだ。安心していつも通り、大丈夫。大丈夫。うまくいく。」

なんとなく1秒1秒が長く感じる。

舞台袖の幕引き用の長くて太いロープが奥に垂れ下がっているのを視界に捉える、1秒。

ちょっと後ろには一部で踊り終えたメンバーが息を呑むように富美子を見つめているのも見える、1秒。

照明の当たる床の鮮やかなフローリングの何重にも塗られたニスが本物の舞台に自分が立っていることを再確認させる、1秒。

幕の横に置いてある大きな照明機材、1秒。

近くに横たわる雑巾、1秒。

舞台後方の大きなうねりを描いて垂れ下がる重厚な深いワインレッドの幕。1秒。

全てのシーンが味わい深く、唯一の景色だ。

途端に頭が真っ白になってしまう感じがした。

次の瞬間には、今ここに生きているという感覚がまた呼び起こされていた。

全ての目に見える世界が、完全にリアリティを帯だす。

全てのものの意味と形と存在は浮き彫りで剥き出しであって、”確か”になっている。

富美子は心の中でつぶやく。

「・・・え」

「、、、、私、、、生きている!!!」

「え?今?無理・・・怖い!!!なんで今なのよ、、、無理よ、、、人前で踊るなんて時に・・・どうしよう!」

そうこうしているうちに、曲が流れ出してもう舞台へ出ていくタイミングになった。

「だめ、無理、無理無理無理・・・」

体の感覚だけが頼りとはまさにこの事だった。踊って練習してきたことで得た”手続き記憶”という脳機能が勝手に富美子を動かす。音楽とともに脚が一人でにリリィの方へ歩み寄っていくようにして舞台のスポットが照らされている場所へ辿り着いていた。手続き記憶は富美子を引きずり回すように勝手に動いてくれている。

「やめて、無理、無理、無理、もう無理・・・」

富美子は頭が真っ白になって完全に動きも流れも全部吹き飛んでしまっている。

脳の手続き記憶にただただ身を委ねた。しかし富美子は「この奇跡の状態は長くは続かないだろう・・・」と察知し、完全に諦める意外になかったが演技はなおも続く。本当に1秒1秒がなんて長いのだ。

リリィと向き合って手を合わせた時の視界に映るリリィの醸し出されているそれはなんと軽快で愉快なのだろうか・・・。比較対象を見つけた富美子はより一層の不安を感じ心の中で無意識に唱える。

「どうか、神様、お助けください、私を正気に戻してください。お願いします。死にそうです。」

しかし、頭は真っ白なままだ。

富美子は、いよいよ「これは終わったな」と思った。

そして、シーンは<向かい合って手を突き出し、後ろに3歩戻ったら客席を向いてニコリ&ジャンプ!>へと移行する。

リリィの栗色の瞳と紫色のケバいアイシャドウがやけに近く感じる。

・・・時が止まる思いがした。1秒1秒が奇跡的に長い。全てがスローモーションなのだ。

・・・・・・・なんて長い1秒だろう。

放心状態のままの富美子に、照明のプリズムがチラチラと揺れて光っているリリィの瞳が深く突き刺さった。

そして、次の瞬間、ついに我に返ってしまう。

富美子は時が完全に止まってしまう。心の声で「えええええ?!!!あれ???」という。

リリィは相変わらず同じ動きをしている富美子から目を逸らすと、客席の方へ顔を向けてにっこりと笑っている。

富美子は一瞬またしても、ん?と思って客席の方を向く。

そして大きな声で叫んだ。

「ええぇぇぇぇええーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」

周りのダンサーはみんなで驚きのジャンプ!を演じている。

瞬時に客席の全員が富美子に注目した。

客席からは途端に笑い声が聞こえ始めた。

ところにより手を叩いて笑っている人もいるようだ。

あっはっはっはっはっは!

まばらに拍手が聞こえてくる。しまいには指笛をふく陽気な人もいるようだった。

富美子は途端に自分が笑われたのだということに気づく。

「あ、、、あれ・・・?私・・・え?・・・」

なんだか、笑われた事によって一気に緊張の糸が切れた富美子は皆が踊っているのを尻目に呆然と立ち尽くしていた。何か異様なくらいに落ち着いて舞台の上で”踊らない私”を1秒1秒眺めている。

富美子は何を思ったのかゆったりと呼吸をした後、両手を大きく上の方に広げて深く大きく笑った。

リリィは向かい合いのポジションに来た時に、すかさず小声でトミィに言う。

リリィ「あんた、すごいわね!!!まさか振り付け吹っ飛んじゃったの?ダンスよダンス!踊んなさいよ!右足タップ!」

トミィ「・・・・・・・・」

リリィ「次の右足タップのシーンで入ってきてったら!」

少ししてようやく富美子は完全に正気に戻ったようで、リリィの方へ穏やかに振り向いた。

富美子は自分がやらかしてしまった事に気づき、何か本能的なスイッチが押されたようにして、即興の振り付けを自然な流れで少しずつ加えた。

そして、できる限り違和感ないように繋げた。富美子の脳のIQはこの時ばかりはもはや超天才レベルを思わせる数値を叩き出していたことだろう。”脳みそが恐ろしいほどにギュンギュンと働いている感覚”を人生で初めて体験した。

そして、リリィに言われた通り、本来のダンスの流れの中に右足タップのシーンから無事入ることができた。

その頃、舞台袖では、先生が富美子達の様子を見て心臓を大変小さくして息を呑んで見守り祈っていた。「どうか、富美子さんが正気に戻りますように、うまくいきますように」

音楽が終盤を迎え、軽やかなタンゴ調のダンスと共に二部のメンバーが最後の決めポーズをきちんと決めるのが確認できた。

生徒達が可愛らしい足取りで帰ってくる。まるで親鳥になったかのような気持ちだ。よくぞ帰ってきたと、生徒達の勇姿に大きく胸を撫で下ろし、先生は深く息をついた。

「はぁぁ・・・。」

音楽だけが舞台上を優しく飾り、暗転して、最後に全員が舞台に舞い戻った。

先生は皆を仕切りまとめるように最後の拍手の際に綺麗なお手本のつま先からの足取りで前にでていき、舞台の中央で片腕をぐるんと大きく回して可憐におじきをして拍手を浴びる。

少ししたのち、1番は端っこの生徒の所へ移動して手を繋いだ。

全員が手を握ったことを確かめ合うと、握り合った手を皆で目一杯上にあげて大きな大きなお辞儀をした。

拍手は鳴り響き、そのままゆっくりと幕が降りていった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

公演会が終わった翌日のことだった。

富美子の自宅の電話が鳴った。

ピロピロピロピロ、ピロピロピロピロ

富美子「はい、もしもし」

先生「あ、もしもし〜富美子さんですか?ダンス教室の佐々木です!昨日はお疲れ様でした。」

富美子「あ、先生!昨日はどうも大変お世話になりました。貴重な機会になりました。」

先生「こちらこそ、とても楽しかったです。富美子さん、とても素敵だったので本当にいい機会になってよかったです、ええ、本当に。」

富美子「本当にありがとうございました。はい、私もびっくりしました。お恥ずかしいやら嬉しいやらですが、先生が褒めてくださって良かったです・・・。ところで、お電話どうなさったんですか?」

先生「あ、そうそう、そのね、ちょっと面白い話があるんです、電話でいうのもなんですが、実はね。」

富美子は何かを感じて唾を飲んだ。

先生「私の知り合いで、今回の公演を見にきてくださっていた方がいて、とても面白くてびっくりしたよと、大変褒めてくださったんですけどね。」

富美子「はい」

先生「あの、そのね、今回の公演の二部の作りが特に印象的で面白かったってことなんです。でね、その方って、実は芸能プロダクションを運営していらっしゃる方で、白石さんというんですけどね。その方が、「真ん中で踊っていて最後に中央で叫ぶ女性のシーンが面白すぎだったよ」って公演後に訪ねてくださったんですよ。「なんであの演出になったの?すごい空気感だったよ!」ってすごくね、絶賛されてね、事細かに私に聞いてくるんですね。」

富美子「はい・・・」

先生「それで、実はあれは私の演出ではなくて、あの生徒さん自身が本番に急にアドリブで叫んで面白くしてくださったんですよ、ってお伝えしたんです。そしたらね、もうその白石さんが大爆笑っていうかねぇ?すっごい、目をキラキラさせて、もしよかったら紹介してくれないかっておっしゃったんですよ。」

富美子「え、、、あの紹介って、・・・何をですか?」

先生「何をって、富美子さんのことに決まってるじゃない!」

富美子「え!わ、私・・・?!」

先生「どうですか?富美子さん。ちょっと面白そうじゃない?ひとまず少しだけお話ししてみてはどうかしら?白石さんはとても優しいし面白いし本当に素敵な方ですよ。」

富美子「え、、、私何を話せばいいんでしょうか?あれって、だってもうほとんど事故みたいなものだし、、、」

先生「何言っているのよ、最後のつなぎもきちんと舞台の流れを壊さずにうまくやれていたし。それにあれは天才的な瞬間でしたよ。白石さんが何をたくらんでいるのかは私にもわからないわ。でも、もしかすると今回のこの出会いはあなたの才能が開くきっかけになるのかもしれないですよ?」

富美子「先生・・・でも私、、、そんな芸能なんてなんの才能も・・・。」

先生「・・・」

富美子「わかりました。じゃあ、、、」

先生「よし!決まり!ふふっ。そしたら、富美子さんにOKもらったからとお伝えしておきますね。」

富美子「はい・・・。」

それから1週間もしないで白石さんと富美子は会うことになった。

この日は後から思えば確かに先生が言ってくれたように富美子の新しい人生を歩む始まりの日となった。

初対面の日の前日に富美子は律子に相談の電話を入れていた。

富美子「私、そんな何もできないのに何を言われるのかしら・・・」

リリィ「「あなたって天才ね!あっはっはっはっは!最高!」

富美子「そんなひどいわよリリィさんったら。私、本当に困っているのよ?」

リリィ「トミィちゃん、もう、落ち着きなさいよ、こうゆうときは真面目になるもんじゃないわ。ひとまずは何を言われるのかもわからないことだし、会って話を聞いてみて直感的に思ったことを話すだけでいいのよ。」

トミィ「・・・そうね、ごめんなさい、感情的になっちゃって。じゃあ、私、行ってみるわ。・・・でも、正直にいうと、とても心細いのよ。だからね、もしリリィさんも一緒に来てくれるならすごく心強いんだけど、、、どうかな、、、迷惑なのはわかっているけどね、でも怖いの、ごめんなさい、お願い。」

リリィ「え?・・・私も?そんな大切な会合かもしれない所に?」

トミィ「お願い・・・。」

リリィ「・・・うーん、じゃあ・・・」

トミィ「・・・」

リリィ「・・・わかった!じゃあ、その会合のカフェ店内で、トミィちゃんと白石さんの座っている席の近くの席に私も座って本を読んでいるフリをする。それで、聞き耳を立てておいて、何かあなたが相談したくなったら、床を靴のかかとでコンコンコンって叩いてトイレに行くの。それを合図に私もトイレに行く。どう?」

トミィ「トミィさん・・・うん。ありがとう!!!助かるわ!あぁ〜安心した・・・!じゃあ明日、ダンス教室の向かい沿い30m程北に歩いた所にあるカフェに「葵〜AOI〜1時に来てもらっても良い?カフェ葵っていう所みたい。」

リリィ「オッケー、任せなさい!ああ、なんだか楽しくなってきたわね〜!」

カフェ葵〜AOI〜にて

2009年11月11日PM1:00 

二人は秋のモンブランフェアというポスターが飾られてあるドアをカランカランと開けて店内の空いているボックス席を探した。その日は小雨だったからか店内はそれほど混んでいない。

富美子と律子は背合わせになれる隣り合ったボックス席を選んで座った。

律子は早速”本日のブレンドコーヒー”というものを注文して文庫本を開いた。

富美子は頼んだアメリカンコーヒーを口に含んでは、ボックス席の出窓から見えるカフェの外壁を這っている蔦が水に滴っているのを眺めた。

10分もそうしてものふけっていると、全身ほぼ焦茶色の服の男性が窓の外を通り過ぎていく。富美子は直感する。「あの人だ・・・」

そうしてカフェの入り口のドアが大きくカランカランとベルを鳴らして開いた。富美子はそちらの方を見ないようにした。

数十秒後には靴音がカツカツと軽快にこちらに向かってくる。

そしてその人は、富美子目掛けて野太い声で右斜め前から話しかけてきた。

白石「ああ〜!こんにちは!富美子さんですね?私、白石と言います。お会いできてよかったです!お席、いいですか?」

富美子「あ、はい、こんにちは。こちらこそよろしくお願いします。どうぞ、座ってください。」

律子は景色に馴染んできちんと静かに本を読んでいる。

白石はコーヒーを頼むと届いたおしぼりで手を拭き、ふぅと声を漏らした。思い出したように名刺を取り出し、富美子に渡して自己紹介を済ませる。

白石「吉日芸能事務所のプロデューサーっていうかまあ、色々やっているんですけどね。あっはっはっは。富美子さん、よろしくお願いいたします。」

律子は驚いた。(え?きちじつ商事?え?すごいじゃない、、、。)

富美子「ありがとうございます。大きな事務所さんなんですよね。そんなすごい方に私どうお話したら良いか今も少し緊張しています。佐々木先生からお電話いただいた時はびっくりしましたし。」

白石「そうですよね。あっはっはっは。驚かせてしまってすみませんでした。実際はそんな大それた話をするつもりはないんですよ、なので安心してくださいね。当日の話も所謂(いわゆる)事故的な所があったとかって、まあ軽くは佐々木さんから聞いてあるんです。でもね、何か感じるものがあったんですよ。・・・それでね、ちょっとどうしてもこうゆう仕事していると、人間に興味が出てきてしまう職業病というやつなんですかね。まあ、少しお話してみようと思ったってわけなんです。結論を先に言うと、何かお笑いとか、もし興味があるんなら、僕はそれを披露する場所は作れるのでと伝えておきたいなと思って。まあよくいうじゃないですか、偶然も必然とかって。あっはっはっはっは。」

富美子は依然あまりたくさん普段から笑う方ではないので、白石さんのような豪快に常に笑っている人にはどうやってコミュニケーションをすればいいかわからなかった。

しかし、それ以外はとても爽快感のある、聡明な人のように思えたし、さすが大手のプロダクションの人はこうなのかと関心したと同時に少しだけ怖気付いてしまっていた。

「笑いとは攻撃である」という父の格言をなんとなく思い出してしまった。

しかし、この哲学を払拭したい気持ちがあの日の舞台で芽生えたことは確かだったのだ。

直感的に白石さんなら自分の大きなこの蟠り(わだかまり)とそれに伴うトンネルの中を走ってきているようなこの感覚を拭い去ってくれるのではないかという謎の期待が込み上がってきていた。

富美子「あの、私に何か期待してくださっているのかもしれないんですが、私は、元々あまり”お笑い”とかっていうのは苦手というか。実はそもそも”笑う事”に関しても色々思うことが幼少期からあったんです。でも、だからと言って、それで自分には何をしようとかって具体的には何も浮かんではいないんです。ただ漠然とした気持ちで、何か気になる連絡だったというか、それで来てみたんです。昔の私だったらおそらく、ここに来ていなかったと思います。それで、えっと・・・純粋に、ずっと前からの疑問があるんですけど。こんなこと聞ける人っていなくて。でも白石さんならわかるかもしれないってなんとなく感じて。・・・聞いてもいいですか?」

白石「はい、なんですか。」白石はにこりと笑った。

富美子「白石さんにとって、”笑い”とはなんですか?」

白石「・・・・・ぷっ、、、、あっはっはっっはっは!!!いや〜、富美子さん、、、、、やっぱりあなたって面白い!多分、あなたは天才ですよ、あっはっは。いやあお会いできてよかった。うん。」

富美子「いやぁ、あの、笑ってないで、聞いているんですよ、真剣なんです私。”笑い”について。、、、どうですか?」

白石「・・・こんな人に会ったことないや僕。あっはっはっは。・・・そうですねぇまあ質問に答えますね。笑いとは。」

富美子は白石を静かにじーっ・・・と強い眼差しで見つめている。富美子の目の中でカフェ店内のミニシャンデリアの光がくっきりと映り込む。それを見た白石はやはり堪えられずにおかしくて笑ってしまう。

白石「あっはっはっは。いやいや、ちょっと、白石さん、すごい、見過ぎ見過ぎ!そんな、僕すごい事なんか言いませんって!あっはっはっは。」

富美子は面食らった。体が少し力んでいたのが緩まって、何よ?馬鹿にしているの?とでも言わんばかりに顔から若干の怒りが見え隠れしている。

白石「はぁ・・・面白いなあ。まあまあそんなに怒らないでくださいよ。私もこの道長くてですね。色々”笑い”ってなんだろうなぁって考えさせられるシーンはたくさん見てきたんですよね。それでですよ、まあ真剣に答えますと。うーん・・・強いていうならですよ、僕にとっては、、、”魔法の道具”・・・ですかね。」

富美子は顔をあげて目を丸くし、白石を見つめた。

富美子「、、、魔法の道具?・・・それってどうゆう意味ですか?もう少し詳しく聞きたいです。」

白石はまた小さく笑ってから富美子を見つめると、何か信念を持つような覇気のある口調で言った。

白石「こればっかりは言葉でもって伝えきることはできないんですけどね。例えるなら何にでもつけられる薬みたいな感じかな。”笑い”って本当に僕の人生にとってはなくてはならないものですし、宝ですよ。僕の人生から”笑い”を奪ったら何も残らないです。実は、僕、妻を5年前に亡くしているんですけどね、その時の僕を救ってくれたのも”笑い”だったんです。今でこそわかるんですけどね。・・・まあそんな感じですかね。」

白石は、穏やかに微笑むとブレンドコーヒーをググッと飲んだ。

カフェ内のピアノの穏やかなBGMの流れる空間に白石の仕事用の携帯電話のベルが小さくなり渡り、白石が少しの間外しますと席を立った。

富美子はなんだかすごく動揺していた。初対面の人に”笑い”を理由に怒りを露わにしたのも、ひさしぶりで、そんな自分になんとなく恥ずかしい気持ちになったこと。それから、

”笑いとは攻撃である”という信念を持っていた身からすると、愛する人を失った人の心の痛みにすらつけられる薬になるものだという信念を聞いて、自分の信念を疑い始める。

そして、この人もまた、最愛の人を私と同じ時期に亡くしているという偶然。

この白石さんという方がどのくらい真剣に”笑い”に対して向き合ってきているのか、私と相反する価値観、そしてその背後の強い想いを受け取った富美子ははっきりと”お笑い”に対する興味が自分の中で沸き起こるのを感じ取った。

富美子がぼーっとしていると、リリィが体勢をそのままに後ろから声をかけてきた。

リリィ「ねぇ、トミィ。今、あなた、どんな気持ちなの?」

トミィ「リリィさん、そうね、私、何かすごく大切な事を聞けた気がしてて・・・・。それになんだかとってもワクワクしているのと、同時に若干の恐怖と、・・・ごちゃ混ぜでわからない感じっていうのかな。でも、何か私、ここで掴めそうな気がしてきたというか。何かやりたいような気がしていてソワソワするの。もしも、よ。もしも、私にできるなら、何かをやってみたい気持ちが出てきたかもしれないの。」

富美子の中で、このトンネルを出られるチャンスになるのがもしかすると”お笑い”にこそあるのかもしれないという希望が湧き立ってきた。もう少しで抜けられそうでいて抜けられなかった長い長いトンネル。

その中にまた一筋の光が差し込んできたように思われたのだった。

それはこれまでのような、思考の世界ではなく、単なる空想の世界である。その空想の世界で富美子は口を開けてあっはっはっはと笑っているのが見えたのである。

あの日の爽快感、観客の人たちの笑っている姿の何か愉快な気分というのは、果たして”攻撃”だったのだろうか?と頭をよぎっていた。

確かに、本質的には嘲笑っているのかもしれない。そのことは頭ではわかる。でもだからと言って自分自身がそれで苦痛であったわけではないのだ。むしろ何か不思議と”優しさ”を感じたのは幻だったのだろうか。

あの感覚が今でも、あの時の体と心と自分と自分以外の他の人との一致した感覚。調和した感覚。あれがなんと心地よかったのかと今も何か思い出す時があった。

白石さんが言っていた”魔法の道具”というものの”魔法”というものを自分はあの時、はっきりと感じた気がしたのだ。あれは魔法だったのかもしれないと。

リリィ「つまり、その、何か”お笑い”をやりたいってそうゆう事なの?」

トミィ「・・・うん。」

リリィ「ふふふ、あなたやっぱり面白い人だったわね!笑」

トミィがリリィの方に向かって体を曲げた。そして「リリィ」と言った。

リリィが振り向むとトミィは笑っていた。「ねぇ、お願いがあるの、最後のお願い。」

リリィ「・・・何?もしかして・・・」

トミィ「その、、、、あのね・・・私と一緒にもう一度舞台に立ってくれないかなって思って。私、一人じゃ怖いのよ。」

不器用に笑っているトミィにリリィが、これが笑いよと言わんばかりに大笑いした。

リリィ「あっはっはっはっはっ!トミィちゃん、、、あなたって本当に面白いよねぇ。可愛い人よね。・・・うん、いいよ。一緒に、やってみよう。私も”お笑い”好きだもの!」

その時、後ろから野太い声が飛んできた。

白石「あのぉ・・・こんにちは、もしかして、白石さんとペアで踊っていた方ですか?」

リリィ「え、やだもう、、こんにちは。はい、お察しが良いんですね。バレちゃった!あはははは」

白石「いやあ何かと思いましたけど、偶然ですか?それとも一緒にきていたんですか?リリィとかトミィとかっていうのも何か、、、あっはっはっは。」

トミィ「あの、すみません、白石さん。実は、一人で来るにはやっぱりちょと怖かったんです。えっと、・・・それで彼女にお願いをして一緒にきてもらっていたんです。」

白石「なるほど、そうゆうことでしたか。じゃあリリィさんも一緒にお話ししましょう。」

そこからリリィはトミィと白石の席に移動した。

トミィはまるで自分が小学生の頃に戻ったような感覚で、秘密基地にいる、白石という少年と、リリィという少女と、これからどんな野望を現実にしていこうかとそんな夢を描いているそんな感覚になった。

なんだかホームに帰って来たような気がして、ずっとこのボックス席で作戦会議を楽しんでいたいなあと感じていた。

拓かれた世界

1ヶ月後、トミィとリリィは早速、漫才を勉強し練習し始めた。

それから半年もしないうちに近隣のスーパーモールで用意してもらった舞台で漫才を披露し始めた。

二人は名前のまんまトミィ&リリィでコンビを結成して少しずつ活動の幅を広げ、一年もすると、二人は仕事のオファーを正式にもらえるようにまでなっていた。

お笑いイベントから、学園祭、宴会場、企業の催し。ありとあらゆる種類の人々の前に立ち、自分達の”笑い”を披露した。

そんな日々が続いていたある日に、富美子ははっきりとトンネルをついにはっきりと抜けた事を体感した。

とても晴れやかな気分で、自分が生きていて自分の意図した人生を送っていると感じた瞬間でもあった。

もう、鮮明に自分が生きている!という感じが持続しているのだ。突然のことだった。

それは、あるお笑いイベントで漫才を披露した日の最初の大きな笑いが起きた時の事。

片方の頭で漫才をしながらもう一つの頭のどこかで捉えていたことがあったのだ。

その何かを理解して安堵した瞬間に今まで自分の周りにまとわりついていた薄いベールがするりと消えて溶けていった。

その日のライブが終わってリリィに告げた。

トミィ「リリィ、今日のライブ最高に面白かったね。いつも本当にありがとう。」

リリィ「こちらこそ、ありがとう。今日のトミィは何かまた以前のダンス舞台の時と同じような雰囲気を放っていたのわかっていたわよ。」

トミィ「そう。そんな感じがあったの。私、ずっと今を、自分自身を生きられていなかったの。だからね、今まで亡き夫からのプレゼントの指輪を肌身離さずに常に持っていたし、私がみている景色って夫といた時の自分、あの時期の自分からずっと変われずにいたの。昔の私に戻ってしまう気がして、、、でもね、今ならちゃんと自分の力で今を生きられる気がするの。今が大切なチャンスのタイミングだと思うんだ。だからね、この指輪なんだけど、、、リリィに預けさせてもらえたりしないかな?

自宅に置いておくと、また安易に過去の自分に酔いふけてしまう気がして。私が本当の意味で”今ここに私を生きる”を手に入れるまではこの指輪を眺めない方がいいと思うの。今、がチャンスだと思うの。だから申し訳ないんだけど、、、渡しておいてもいいかな?」

リリィ「え?、、、預かっておけばいいのよね?全然良いわよ。でも無くしちゃったりしないか不安だけど、万が一のことがあったらどうしよう?」

トミィ「その時はその時でいいわよ。これが無くなったとしても夫との過去がなくなるわけでは無いからさ。」

リリィ「そっか、わかった。じゃあ預かっておいてあげるわ。」

トミィ「ありがとう。明日の稽古の時に、指輪ケースに入れて持ってくるようにするわね。」

トミィは翌日、パールホワイトの指輪ケースに夫からもらったダイヤモンドの指輪を入れてリリィに渡した。

トミィ「リリィ、本当にありがとう。でも一応言っておくわ、、、勝手に売ったりしたら訴えるんだからね!あっはっはっはっ」

リリィ「あんた本当に変わったわよね。すごく素敵よ。ダイヤモンドより優っているわよ。だからきちんと質屋に入れておくんだから!あっはっはっは」

二人は顔を見合わせて体をよじらせながら笑い合った。

家に帰ってから改めて布団の中で思いふけていた。

”笑い”はやはり確かに父が言っていたように、嘲笑が起源なのは間違いなさそうだった。でも、それをどう扱うかで意味合いはいくらでも変わる。

もちろん何か対象物を笑うことはそれによっては善にも悪にもなるだろう。しかし笑うことそれ自体の生物的な側面が嘲笑であっても、起きている現象の実態はその人自身が見ている幻想の世界のことを笑っているのであって、ただの体験でしかないし、当然のことだが、他人からの嘲笑で対象の価値が決まることは絶対にないのだ。

今こうやって私が笑われ役を演じていることなど皆忘れてただただ笑っているのを見ていればわかるのだ。これは私が今ショーをしている時のみに限らない。

自分以外の人のことなど完全に知りきらない自分以外の人が、どうやって嘲笑うということが、認知的にできるだろうか?

確かなことがわからない不明瞭な間柄で、誰かを本当の意味で侮辱することは不可能だ。

つまり、みな、幻想に酔いながらコミュニケーションをしている。もちろん、笑いに限らず、泣くこと、怒ること、喜ぶこと、全てがそうだ。そして、あの客席の人々は、私たちのショーによって、お笑いショーをわざわざ見に来て笑うという体験をしているのだとはっきりと目に映っている。それは作り上げたショーで笑いを起こすことができるということは皆が見ている世界をきちんと操っていることを意味する。つまり私が作った世界で笑ってくれているのである。それは笑われているのではない、こちらが笑わせることができたのである。

そして私は観客のみなさんの前に立った理由はただ一つ、誰かを笑わせてあげたいなんて慈悲の気持ちではない。あげたいなんていう潜在的に誰かと上下関係を作るような行為ではないんだ。

これは上下関係を持ち合わせていない私が起こしている笑いの魔法だ。

つまり、この”笑い”の会場に侮辱は存在していない。攻撃の意味も含んでいない。

私は私の中の疑問を解きトンネルを抜ける為に舞台に立ったのだ。

誰かにとっては、面白くて優しい人に映るだろう。誰かにとっては、ただのアホに映るだろう。誰かにとっては、賢い人にうつるだろう。

誰が私のトンネルを抜けたいが為だという理由を知ろうか。

今、目の前で笑っている人達には知り得ないことだ。そしてそれでいいのである。

皆、、、自由でいいのだ。

父は幻想を見ていたのだ。

そして私もまた、幻想を見ていたのだ。

ステージから見える顔は、どんな人も目を輝かせて楽しんでくれている。笑っている。

さっきまで真顔だった前席の母親に連れてこられていた少女も、奥さんと不仲な感じのする隣の席のしかめっ面の年配男性も、みな人生がある。

この人たちの人生には私には知り得ないドラマがある。

例えばその毎日の中で、私が長いトンネルの中を走ってきていたのと同じように、満たされない思いや、何か思い悩むこともあるだろう。

それでも、みな生きている。時にはとても辛く苦しく人生を投げ出したいと思ってしまう時もあるのだろう。

それでも、みな生きている。そして私と同じこの空間に偶然にも居合わせている。

”笑い”についてずっと考えてきた私だからこそ思うのだ。

笑いが何か感情を発散させるものであるということが、変わり映えのしない毎日の中で偶然にも誰かを慰める行為になるならこれは幸いなことのように思う。

私は自由に真実を見出そうとした。

観客の人々は笑うことで慰めを得た。

それでいいじゃないか。

私は笑うことを私に許した。

笑われることは今の私にとっては成長の証である。

そしてそれによって、多くの人に少しでも元気や生きる喜びが見出されるならいいなと何か自然とそんな気持ちになった。

まあ、いいか。

本当のことなど誰にもわからない。

真理などこの世にはもうないのかもしれない。

確かなことなどないのだ。それは答えを出すものではないのだ。

富美子が布団の中で思考を巡らせていたその時に、久しぶりに頭上でラップ音がパンッと鳴った。

また少ししてからもう一度、コンッ、コンッと可愛い音が2回鳴る。

今ではこの音が、誰の鳴らしているものなのかは定かではない。夫のものとは違うと思っていたのも私の思い込みかもしれないし、あるいは正しいかもしれない。

そこに意味付けをすることは遊びであるだけだ。これがなんなのかと真相を追求することは水や空気を掴もうとしていることと同じだ。

何にでもなり得る得体のしれないそれに名前などは存在しなくていい、意味や価値も存在しなくていい。

今ここに生きている私の感覚が気持ちよければ、それだけが答えだ。

60歳の記念のプレゼント

トミィ「では・・・」

トミィは客席に箱の中身が見えるようにプレゼントを開封し始める。

客席の人々は息を呑んでいる。

芸人歴10年のトミィ&リリィの記念のワンマンライブは数百人規模の大きな舞台であって。

この還暦祝いにあげるプレゼントは二人にとっても特別なものになることは皆、容易に想像がつくことだった。

プレゼントは赤地に白い水玉模様が描かれてある包装紙で丁寧に包まれており、薄緑のパールが買った細いリボンとシールの装飾がついてあった。

リリィが箱の中をついに開ける。

リリィ「3、、、2、、、、1、、、、、、、、!」

箱から出てきたのは、なんと

あのパールホワイトの指輪ケースだった。

まさか、ついにこの時がきたのね、、、という風に

目を大きくしてリリィの方を向いたトミィ。

リリィは片目をぎゅっとつぶって顎で合図した。

トミィがゆっくりと指輪ケースの中を開けると。。。

そこにあるはずのダイヤモンドの指輪は、なかった。

代わりに空っぽの空間が空虚に残っている。

「え・・・・。」とショッキングな様子が隠せない富美子。

まさか、何も入っていないなんて。

富美子は観客の前であったが、明らかに悲しそうな顔をして、少し瞳をうるうるとさせていた。

リリィがその様子を見て、なんと、吹き出して大笑いし出した。

トミィ「ちょっとぉおおおおお!あんた何にも入ってないじゃ無いのよぉおお!」

リリィ「トミィちゃん、残念だったわね!1番美味しいところは私がもらっておいてあげたわよ!」

と言って、リリィは手を大きく観客の方へ見せびらかすと、観客は後ろの方まで届くダイヤモンドの照明に当たって光その存在を皆しっかりと確認した。

トミィは安堵したのと同時にこれはリリィのアドリブショーなのだと認知し、即座に本気混じりの大きなツッコミを入れた。

トミィ「うおおおおい!!!BBAぇええええ!!!返せええええーー!!!!!」

会場のみんなが大笑いした。

トミィがリリィのあげている腕を下ろそうと肩を揺さぶった。

トミィ「あんた、ほら、返しなさいよーーー!!!」

リリィは「やだよ〜ん!」と言って、トミィから逃げるようにステージ上の端っこへと小走りした。

トミィがそれを追いかけるように「待ちなさああああい!」と小走りして追いかける。

会場のみんながまた笑っている。

少しの時間、ずり落ちるジャージを引っ張り上げながら走りあい、追いかけっこをした後、リリィとトミィはステージの中央に戻ってきた。

そして、二人は徐々にボルテージを下げて、それとなく終わりを予感させてから、こ綺麗にお辞儀をして落ち着いた。

トミィは呼吸を乱しながらリリィの方を見た。この後、元ネタの流れに戻るのだろうと思い、出方を伺っている合図を出す。

トミィと目を合わせたリリィは肩を軽くポンと叩いて小声で「自然体でお願い」と言った。

リリィ「皆さん、本日は私たちの舞台を見に足を運んでくださり、楽しんでくださり、どうもありがとうございます。」

観客席から拍手が届く。

拍手が落ち着いて間を感じてからリリィが口を開いた。

リリィ「実は今回、還暦でトミィちゃんにプレゼントしたこの空っぽの指輪ケースですが、実際に、この私が指に付けている本物のダイヤモンドの指輪が入った状態で元々あったものです。そして、これは私がお店で買ったものではありません。・・・実は富美子さんから私に10年も前のこと、「どうしても預かっていて欲しいの。」とそう言われて預かったものでした。これはネタではなくて実話でちょっとだけ私たちの大切な過去の話をさせていただきますね。」

会場が静かに聞き入っている。真剣な目に変わっている人もいる。

富美子も突然のリリィのアドリブにどう対応したら良いかわからず、静かに口元を結んで聞いている。

律子「当時の富美子さんは亡くなってから6年以上立っていた旦那さんの存在があまりに大きく、立ち直れていませんでした。でも、舞台に立ち始めた事、お笑いをやる事、こうして皆さんと繋がっていく中で、徐々に自分の居場所が見つかり、そして、生きる希望や喜びを取り戻し始めていきました。そんな頃に、もう、昔のように過去に囚われて思い悩みたくないとのことで思い切って私に預かっていてい欲しいと言って私はこれを渡されました。正直に言って、とても重い役割な気がしていました。私が富美子さんのある意味で旦那さんみたいなもののように思えたこともあったんです。でも、何か私は富美子さんにご縁を感じていたし、富美子さんが元気になっていく様子をそばでずっと見ていられたことは私自身にとっても何かエネルギーをもらえていたんです。富美子さんが元気になっていく姿が嬉しかったんです。そして私たちは今回、10周年を迎えました。富美子さんはもう心から本当の意味で自分自身をしっかりと、今この瞬間を生きられていると、コンビを結成してから着実に感じてきた今、これを返す時がきたとそう思いました。もう、この指輪は過去への囚われという証ではなく、本当の意味で富美子さんにとっての宝になっているはず。だから、これを渡そうと思います。富美子さんが本当の意味で立ち直る為の私の最後の役割を終える時がきたと思っています。私たちもあと何年立ったら棺桶行きかわからないんだからね。なんちゃって。でもね、ここからが私達のさらに輝く日々が始まる合図だとそう信じています。」

律子はそう言って、自分の左の指輪から富美子の手を取り、富美子の左手の指輪にはめた。

富美子は静かに、それを受け入れた。

律子の瞳を見た時、何か、不思議な感じがあった。

照明のプリズムが律子の潤んだ瞳に写っている。淡く強く優しい瞳。その瞬間に、全てがフラッシュバックするように、これまでのさまざまな素晴らしい日々が走馬灯した。

この瞳は、、、。

富美子は律子に涙ぐみながら小さく言った。

「…ありがとう。」そして、律子にハグをした。

観客達は今か今かと拍手のタイミングを待っていたが、先立って拍手をし始めた者に続いて他の者達も拍手をし始める。

律子も言った「うん、良かったね。富美子さんはもう大丈夫よ。」

そういってしばらくしてハグを解いて、二人は頷いた。

少し間をおいて富美子が口を開いた。

富美子「会場の皆さん、律子さん。本日は、このような素敵な機会をくださり、本当に、、、、本当に心からありがとうございます。私がこの舞台に立ったきっかけは誰にも話してきませんでしたが、今回このように律子さんの素敵な計らいで、私のこの生き方がある意味で誰かへ何かのメッセージになりえるのかもしれないと思いましたし、純粋に一人の人間として今ここに立って存在していることの喜びを感じています。律子さん、本当にありがとう。・・・・・きっと私たちはどんな形であれ何かの導きでご縁あって、今ここにいるのではないかなと、なんとなく思うんです。そして私たちのお笑いで皆さんの心が救われることが今の私にとっては日々の喜びです。こんな私になれたのも皆さんのおかげでした。これまで10年間、本当に本当にありがとうございました。・・・・今後ともトミィ&リリィをどうぞよろしくお願いいたします!!! 今日は本当に、どうもありがとうございました!!!」

二人は手を取り合って、あのバレエ公演会の最後の挨拶のように手をあげてから深くお辞儀をした。

拍手が最大に鳴り響くき、二人は客席から沸き起こる歓喜の拍手を体いっぱいで味わった。

長いお辞儀の姿勢でステージの床とお互いの握り合った手を視界に捉える。

止まない拍手の中、富美子の左手の指を飾っているダイヤモンドがキラリキラリと強く鮮やかな虹色に光り輝いていた。

終わり。

コメント

  1. Taro より:

    楽曲Gamingを聴いてそれと一対のこの小説を読んでもうひとつありがとうございます。ビートたけしさんも言っていました。「観客を見渡して何度舞台に立っても緊張、私の中のスイッチ 世界で私が一番面白い」自信、魔法をかけて舞台袖から出ていくそうです。笑わせてあげようと考えるより私に熱中しよう。相手の顔色を伺いながらの世界より私が主役の世界で楽しもう、ですね。世界の彩りを私がかえられる感動しました。最後のクライマックス涙あり最高潮のリズム描写よかったです、熱中の読書してました。

    • Hikali Hikali より:

      Taroさん
      いつもありがとうございます(^^)
      今回も楽しんでいただけたようで頑張った甲斐がありました。
      また新しい作品作りに挑戦するエネルギーをありがとうございます♪(^^)

タイトルとURLをコピーしました